死の家

最近、ドストエフスキーの『死の家』を再び読みました。10代の後半に初めてこの作家を知って以来、久しぶりの読書となります。
先 日、東大阪市で20年間ひきこもっていた青年が、高齢化した両親を殺害(心中未遂)するという事件が新聞で報道されていました。両親は年金生活に入り母親 が脳梗塞で倒れて、60代半ばになる父親が家族の面倒を見ていたようです。青年はその状況と将来を悲観して、両親を殺して自分も死のうと思ったと伝えられ ています。20年間、就労といった社会参加もままならず若者は生き続けたのでしょうか。
私が最も痛ましく思うことは若者とその 家族が20年もの期間を、保健所などの支援機関に頼らず(頼れず)社会から半ば排除されたような状態で過ごしたことです。その20年間は、第三者を誰も頼 らず・頼れず、家族のみで若者の抱える問題を解決しようとした月日だったのでしょうか。しかしある時期、電気などのライフラインが止まったとき、家族全体 の生活すら脅かされるようになったとき、若者と家族を待っている運命はいったいどんなものだったのか。「死になさい」というメッセージを、社会から突きつ けられたと言っても過言ではないでしょう。
ドストエフスキーが『死の家』の中でこう述べています。「希望を失った人間は全ての ことに慣らされる」と。ほんのわずかの残りかすのような希望を手にして両親を殺し、「ここに僕がいるんだ、何とかしてくれ」と叫んでいるとしたら。こんな 痛ましい、胸を焼かれるような気持ちにならないでしょうか。人間とは何か、生きているとは何か。そう感じさせる一日でした。
編集部