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家族に殺されたい

家族に殺されたい

去年の春のこと、「家族に殺されたい」という若い人に会ったことがある。内側の生き難さの感覚を鋭く捉えた言葉だと思ったので、そのときのやりとりを含めて印象深く覚えている。二十歳になったばかりだというその青年の話の概略を記すと、こういうことであった。

父 親のイメージする家族のあり方に応じることができない自分は、家族にとって不自然な存在である。だから殺してほしいというのだ。これまで自分を殺せるだけ 殺し、求められるままに必死に父親のイメージする子どもであろうとしてきた。だがいつまでたってもOKがでない。もう限界である。これ以上、自分を殺すこ とは自分ではできない。殺す自分が残っていないのだ。

ところがこの段にいたって、父親は自分に無関心になった。いまや父親に、 なにひとつ求められていないことを感ずる。存在さえも承認されていないようなのだ。遺棄された時点で自分は、家族の一員として存在論的には父親に完全に殺 されてしまっている。ところが遺棄されてしまったのに自分の心は、深く家族に執着していて、離れることができない。そうであれば、私を殺した父親にほんと うにいのちを絶ってほしい、およそそんなふうに語ったのである。「どうしたらいいのでしょうか、自分は?」と聞かれた。「それって相談?」と聞きかえした。「相談ならお断りだけれど、個人的な感想でよければ、少しはいえる」。感想でいいというので、あくまでも私見だと断った上で、次のように話した。

一 般的にいって、あなたが追い詰められたような絶望の淵から引き返せる道は子どもに二つあるように思う。一つは、父親=家族を捨てることだ。家族に対する執 着を脱し、「ひとり」になること。「ひとり」になるということは、思考や行動においてどんな場合でも、自分は自分、親は親という基準で自己決定できるよう になることである。だがそうなるのは簡単なことではない。というのも「ひとり」になるためには、誰かが必要だからである。誰かとは、受けとめて手である。 では誰を受けとめて手として選ぶのか。この受けとめて手は家族以外の者がなるしかない。かつ心から信頼できる人でなければならない。それでなければ自分を 安心してあずけることができない。受けとめられ体験ができないからだ。他者に受けとめられた体験がないと、人は「ひとり」になれない。

あ なたのような状況に陥った子どもは、これまでの人生で父親によって、人に対する不信感はたっぷり受けつけられてはきても、信頼感は作られていない。だから 信頼の対象を得ることは困難をきわめるに違いない。また信頼できる人が見つかっても、その人が受けとめて手になってくれるかどうかわからない。受けとめて 手として友人や恋人も悪くはないけれど、急速な家族への執着からの離脱からは反動としてあなたの内部に激しい依存欲求を生むであろうから、遅かれ早かれ、 彼らはあなたを鬱陶しがるだろうし、あなたの攻撃性に辟易したり疲れたといって遠ざかっていくことになろう。つまり永続性のある受けとめて手として自分を 差し出し続けてくれる人として恋人や友人を期待することはできないと思う。そうすると専門の相談機関、医療機関に頼らざるを得ない。不十分であろうけれ ど、そういう人たちをある期間の受けとめて手として利用していく道を考えること。

もうひとつの道は、親子関係の改善である。父 親がこれまで子どもを殺していた自分に気づき、子どもにその過去の自分の対応を率直に謝罪し、子どもとの関係を改善すること。父親が子どもの受けとめて手 の道をすすむことである。子どもとともに癒えていく道である。ただしそれには父親が積極的に自助グループなどに参加しようという気持ちになることが大切だ と思う。人の言葉に耳を傾けることができるようになるということ。教育者や社会的に地位の高い人は、むずかしいことかもしれないけれど。

どちらも困難な道程だ。だけれど家族に対する執着を脱する方が比較的早道かもしれないと、若い人の話を聞きながら思った。私は思ったことを伝え、そして次のように付け加えた。「どちらを選ぶにしろ一度、父親に真正面からぶつかってみたらどうだろう、そのときの手ごたえでもって判断したらどうだろう」。いい終わってすぐ、いまのは余計な付け足しだったな、と後悔した。「やっぱり殺されたい」、若い人はぽそりといった。

ある父親はいう。「あいつには消えてもらいたい。いなくなってもらいたい。いること自体が我慢できない。」「鼻をかむ音、かみかたがたまらなくいやだ。それになんであいつはあんなに何度も手を洗うんだ」「いいところが一つでもあればおれだって褒める。しかしいくら探してもまるでない」「あいつはもはや家族ではない、おれの子ではない、それなのにおれの建てた家におれといっしょにいるのはおかしい」。このようなある父親の言葉を伝えてくれたのは、その妻である。昨年暮れの小さな集会の場で、我が家の恥をさらすようでつらいけれど、といって話し出したのだ。

「あいつ」と呼ばれているのは、「家族に殺されたい」といった若い人ではない。ある父親の妻によると、「あいつ」と呼ばれているのは彼の十九歳の息子のことであり、その息子は父親を殺したいといっているという。

聞 きながら不思議な気がしてしかたがなかった。父親は「あいつ」と呼ぶ息子が鼻をかむのにどうしてそんなに聞き耳を立てているのだろうか。「あいつ」が何回 手を洗おうと父親には関係がないのに、どうしてそれをわざわざ目撃して激しい嫌悪の対象にしているのだろうか。明らかに父親は、息子にとらわれている、こ のとらわれはなんなのだろう、思った。その点を確かめてみようとして、私は女性に「父と子の別居を考えたことはないのですか。息子さんにアパートを借りるなどするとかして」と尋ねてみた。すると彼女は、間髪を置かずに聞き返してきた。「どのくらいの距離のところに借りたらいいのですか」。その問いに不可思議な顔を見せた私に気がついた彼女は問いの説明をした。

父親が息子の様子を見に行ってしまうと思うものですから

この父子関係に関してほんの少しわかったと思った。子どものことは子どもに返そう、ということができればいいのに、それができないから遺棄してしまう。とらわれという事態と遺棄という事態とは一枚のコインの裏表ではないのかと考えた。

対人関係の病理を解くのに「とらわれ」という概念を作って使い出したのは森田正馬だが、土居健郎はこの「とらわれ」を甘えという観点から「甘えたいのに甘えられないと表現される精神状態」 と把握し直した。上の父親は子ども時代に両親に甘えたことがなかったのではないか。そして甘えの受けとめられ体験がなかったために、ずっと甘えられないの に甘えたい心を維持してきたに違いない。だから相手(子ども)の出方に自分の感情が機敏になり、結局は自分の気持ちが相手によって左右される依存的な関係 が成立してしまう。ここにも「ひとり」になれない人がいた。上の父と子における父親の対応から推測できるのはこうたい父親像なのだ。冒頭の若い人について の考察に際して家族に対する執着という言葉を用いたけれど、「とらわれ」という言葉のほうがより適切な気がしてくる。

「あいつ」のことも気になるので「息子さんはお父さんのことをどういっているのでしょう」と聞いたみた。「殺したいといっています」 というのが返事だった。私は、父親を殺したいといった息子のほんとうの気持ちは、「父親に殺されたい」というものではないかと考えた。冒頭に記した若い人 の言葉を反芻してみたとき、父親を殺すことは、自分を殺すことだ、だが殺すべき自分はもうない。しかし父親を殺すというかたちの自分殺しはできるというこ とではないか、と思えるようになった。

「家族に殺されたい」という極限的な「とらわれ」を子どもにもたらすような家族につい て、その病理性、暴力性に思いをはせる。これまで家族の教育家族化という視点で、家族に内在されている暴力、虐待について幾つかの論考を表してきた。程度 の差に違いはあれ、教育家族化を免れている日本の家族は稀である。教育家族はいまの日本の家族のあり方にほぼ重なるとみていいだろう。

中 内敏夫の作った教育家族という概念を私なりに再定義すれば、家庭なテーマが唯一「いい子」の養成であるような家族のあり方を指している。親は子どもに「い い子」を生きることを要求するのだが、その核にあるのは親に対し従順であれという要求である。子どもは従順への要求に必死に応えようとしたからこそ、それ が不可能であることの絶望的自覚において「家族に殺されたい」という言葉が出てくるに違いない。「いい子」の養成機関である現在の教育家族化した家族以外 にどんな家族が、これほどの「いい子」を作ることができるだろうか。

芹沢 俊介 (05年8月5日更新)

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